今日は紅葉の海岸時から、ピッコロまで歩く日。
「神様が倒れてる~」
地面にうつぶせになってしまっていた神様。
みんなが行ってしまったとも、あーちゃんはずっと石像の前から離れず「考えて」た。
「一人じゃ無理だから、パイン(年長)みんなでやる。」
「パイン、みんな来てー」
年長全員が集まって石像を元の位置(と思われるところ)に戻すことになりました。
いつの間にか男子は抜けて(手を抜いているのではなくて、女子に譲ったのかな?でも女子は「男子は何にもしないんだから!」と)、女子4人で大人一人では持ち上げられないほど重い石像を
階段の何段か上にある場所まで動かして戻した!
「神様をみんなで戻しましょう。」も
「そんなの無理だから、あとでお寺の人に言っておきます。」も
「はい。時間がないからもう行きます。」も
ピッコロにはない。
あーちゃんは、だれの指示もなく、倒れてしまった神様を見て見ぬ見ぬふりをしないで、自分で考えて、自分で決めて、諦めないで、仲間の力を借りて元の場所に戻しました。
ピッコロの3年間で、子どもたちのなかに、「自分で考える」経験がたくさん積みあがっていきます。
ピッコロは、行政の支援を受けられていません。
ピッコロが続けられるように、北杜市長に私が手紙を書いたときに、5年生の娘に
「どうしてピッコロが社会にとって必要なのか市長さんに伝えたいんだけど」と言ったら手紙を書いてくれました。
私は、津金にある森のようちえんピッコロを5年前に卒園しました。
森のようちえんピッコロがなくならないようにしてください。
私は、ピッコロを卒園した後も卒園児を対象とした森の学校や、弟や妹の行事に参加し関わり続けています。
ピッコロの生活は、「自分で考えて自分で行動する」が中心です。
年少のころは、ハードルが高かったけど、だんだんできるようになりました。
それがあるといい理由は、「自分で考える」ができないと、大人になってもそれを普通にできないからです。
学校だと、算数でも国語でも必ず答えがあります。
答えがないのは学活だけで「自分で考える」ができなくなってしまって、私は森の学校に行くと「自分で考える」を思い出します。
だから森の学校がなくなると「自分で考える」の習慣がなくなってしまう気がします。
これからピッコロがなくなると、小さいこどもたちが、普通の保育園に行って、普通の保育園は学校と同じで先生の言ったことに従うだけだから、考える習慣が次の世代の小さい子たちに受け継がれなくなってしまうと思います。
私は小さいころから習慣づけておいた方が後で、たぶんいろいろやりやすいと思います。
ピッコロのようなようちえんや保育園は少ないと思うので、ピッコロを続けて、少しの人だけでもいいから、ちゃんと「自分で考える」をうけついでほしいです。
もし自分で考えるができない人がいたら、ピッコロに入っていた知っている人が教えてあげればいいと思います。だから、ピッコロはあった方がいいと思います。
娘はずっと「自分で考える」を続けているのだと思ったらなんだか涙が出ました。
ピッコロで育ったことにほんとに感謝です。