大事にしたいこと

ピッコロの保育で大事にしてること。
代表・中島久美子のコラムを抜粋しました。

子供たちの力を信じて待ちます

ピッコロではゆとりあるスケジュールで、時間に追われる事が少なく、子供たちが自分で考える時間を大切にします。

例えばけんかについて。

森に入るといつも手に棒を持つ子供たち。
何本でも落ちているのに、やはり1本の棒の取り合いになります。(笑)

今日もけんかが始まりました。
その時大人はどうしますか。
まずけんかをとめる。
次に

1 :同じような形の棒を探してくる

2 :じゃんけんをさせる

3 :順番に使うようにうながす

(だいたい大人が考えられる事はこれくらいです)

ピッコロの子供たちは納得がいくまでけんかをします。
周りの大人は危険がない限りそれを見守ります。
その日はどちらか一方が泣いて、けんかは終わりになりました。
子どもは友達のけんかを放ってはおけないですね。

全員が集まってきました。
けんかがおさまったあと、子供たちと話し合いをしました。
「2人ともこの棒を使いたくてケンカをしたらしいのだけれど、どうすればいいかな」
こんな言葉かけで子供たちの頭のスイッチが入ります。

「2つに折ればいい!」

子供たちが考えだした解決法は
「けんかの原因の棒を足でバキッと2つに折り、両者に渡す」
という方法です。
私は「長さが短くなってしまったのに、これで本当に2人とも納得するのかしら」
と思いましたが、とりあえず、その案を採用。
すると、みごと、2人とも短くなった棒を持ってニコニコと歩きだしたのです。

すごい。

大人が考える1でも2でも3でもなかったのです。

しかし、このケンカが解決するまでには時間がかかりました。
お互いの気持ちは、森という深い空間の中で発散され、
そして、そこにいる子どもたち全員で、お互いの気持ちを知ります。
これはコミュニケーション能力の第一歩です。
自分の頭で考える子になってほしいので
解決方法は大人が指し示すのではなく、自分たちで考えます。
けんか1つをとってもこんなにスタイルですので、時間がかかります。
なので子供の時間で生活したいのです。
大人はけんかを裁く為に
そこにいるのではありません。
子供たちの頭のスイッチを入れる為に存在したいと思います。

ピッコロでは月1回、白飯の日があります。

白いご飯を持ってきて、子供たちだけでみそ汁やカレーを作って食べます。
包丁で野菜も切ります。
さて、この包丁の使い方を大人はどのように教えますか。
最初はうまく切れないですね。切っても切りずらそう。
子供たちもそれはわかっています。

「何だかお母さんがやっているようにはできないな」
「どうも切りにくいな」と。

そこで大人がなにも言わないと、子どもの頭のスイッチが入るのです。

「どうしたらうまく切れるのかな」
「もしかして手が反対かな」
「この包丁が切れない包丁なのかな」
「野菜がぐらぐらするからかな」と。

包丁が上手に使えるようになるにこした事はありません。
ただその「何でかな」を感じる時間を確保したいと思います。
大人が言葉で教えれば、すぐに上手になります。
しかし、包丁が上手に使えるようになる事だけが
目的ではありません。
もっと大事な事があります。
そこに時間をかけて見ていきたいと思っています。

個性を大切に

先日、森の舞台(大きな岩)の上で
歌の発表会ごっこをしました。
自分の好きな歌をマイク(棒)片手に披露します。

グループで歌う子、ソロで歌う子。
何度も歌う子、1回も歌わない子。
ひとりだと歌えない子、舞台に立っても歌わない子。
ウクレレ(幅の広い木)を弾きだす子、踊る子。
歌わないけど、楽しそうに見て笑っている子。

大人は
「ほらみんなみたいに舞台で歌っておいで」と言い
「子供というのはそういう時は喜んで元気に歌うもの」
「積極的に何回も歌ったり踊ったりする子はよく育っている子」
「歌わない子はだめ」
と考えがちです。

果たしてそうでしょうか。
私はここにいるみんなが大事な個性の持ち主だと思っています。
みんなの歌を楽しそうに聞いているだけで、歌わない子はだめな子ですか。
歌を歌うという自己表現の場にそれを求められると
子供は苦しくなります。
歌いたければ、言われなくても歌うようになります。
その時のありのままの子どもたちを受け止めていってあげたいと思います。

しかし、もちろん、集団生活の中では、
自分の話しをしたいけど、人の話しを聞く時、
面倒くさいけどお片づけをやる時など
やりたくないけど、やらなくてはいけない事はたくさんあります。
これは生活のルール、人としての決まりでもあります。
しかし、そうでない事もたくさんあります。
ひとりひとりの個性を大切に。
これは具体的にはどんなことなのでしょう。
大人が決めた”よい子像”に子どもをはめ込むことが教育ではないと思います。

自分を生きる

というと、たいそうな事のようですが、
例えばこんな事がありました。

以前、幼稚園に勤務していたとき、
あるクラスの子供は片付けも身なりもきちんとし、
教室はいつもきれい、
あいさつは大きな声で、片付けは率先してやる。
そんなクラスでした。
それが学年がかわり、
担任が変わったとたんにできなくなったのです。

「先生に言われたからやる」
「おこられるからやめる」
「褒められるから…」

これではだめだと思いました。

自分がやりたいからやる。
やりたくないけど、やるべきだからやる。
やらないと決めたからやらない。

自分で決めた事はそう簡単には崩れません。

最近ピッコロで小さい子に対して集団で何かを言う
という事が何回かありました。
言われた子は泣いたり、怒ったりしています。
言う側の理由はあるのですが、
子供なので容赦ないのです。

先日、その件で子供たちと話し合いをしました。

私「そうされると、されたお友達はどんな気持ちがすると思う?」
子「かわいそう」
私「かわいそうだと思うのに、なんでそうしちゃうのかな」
子「忘れちゃうから」
「優しく言うのを忘れちゃう」(小さい子には穏やかに話すほうがよいという事はわかっているようです)
「忘れんぼ虫が入ってくる」
「忘れんぼ虫がいけない」

なるほど、「忘れんぼ虫か…」と、一瞬、納得しそうになりましたが、
しかし、待てよと思いました。
これでは忘れんぼ虫が悪くて、自分は悪くないという事ではないのでしょうか。
そこで、
私「ではみんなは忘れんぼ虫が来たら
簡単に入ってしまうような心や体なのか」と聞いてみました。
子供たちはじーっと考えていました。
その時ははっきりした結論は出ず、
それで話し合いはおしまいに。

そうして、数日後
何気ない時に、A君がつぶやいていました。
「もうAちゃんに××って言わない」と。
それを聞いて私は聞いてみました。
私「なんでなのかな?」
A君「先生と約束したから」

約束?

私は数日前の話し合いの時、具体例はあげずに話し合いをしました。
彼はその時に、Aちゃんの事が思いあたったのだと思います。
そして誰に言われた訳でもなく、
自分で感じて自分で考え、自分で決めたのだと思います。

大事な事は言葉で言わない保育。
子供自らが感じ、考えてくれるような保育。
人的環境も含め、そんな環境を用意してあげたいなぁと思います。
他人に左右されたり、顔色をみて自分の行動を決めたりせず、自分を生きて欲しいなぁ。
それにしても
A君が「先生に怒られたから」と言わなくてホッとしました(笑)

へこたれない子供

「ズボンに泥がついた〜(泣)」
「袖が濡れたので、着替えたい〜(泣)」

少しでも衣服が汚れたり、濡れたりすると着替えていた子供たち。
いつのまにか、それがなくなりました。

だって、泥がついた事を気にするより、
泥んこになって遊んでいる友達をみていたら、
そっちの方がおもしろそうに見えてきたから。

雨で濡れて気持ち悪くても
遊んでいるとそれより楽しい。
寒くても手をこすれば大丈夫。
北風も平気。

自然環境の中で毎日を過ごすと
多少の悪天候は当たり前な事になります。
それが子供の器を大きくさせます。
「このくらい大丈夫」
「大した事ではない」
そう感じる人になってほしい。
これからの長い人生、数々の困難を
「これくらい平気!平気!」と
ポンと跳ね返す強い精神力の持ち主になってほしいなぁ。
(これはあくまでも希望です)

生活に根ざした保育

「みそって大豆からできているんだ」
「庭の梅の花が咲いて、実がついてそれが梅干しになるんだね」

現在の日本では
誰がどこでどんな風に作ったのか
どこで捕れたものなのかが
見えにくくなりました。

東京で幼稚園に勤務していた時、
魚は白いお皿(トレー)に乗せられたものをお母さんが買ってくるので
自分は命を殺していない!と主張する子がいました。
それも1人ではありませんでした。
私にとってこの出来事はかなりショッキングな事でした。
食事
せめて自分のお腹に入るものくらい
どこから来たのか。どうやって作られるのか。

それを一緒に経験していきたいと思います。

人間は自然の恵みを受けないと1秒たりともと生きられません。
自然に対しての畏敬の念もそんなところからうまれるのではないでしょうか。