こどもにはこどもの世界がちゃんと存在している。

今日は、年中Fちゃんのお誕生日会。

年長の息子がお誕生日会の中で、地面に落ちていた葉っぱ(きっと少し砂が混じっていたりする)を集めて投げてしまって、

それが年少さんたちに当たってしまったという話を先生から聞いた。

これは、なにをどうやって息子と話したらいいことなんだろうと考えると、帰り道の車で何も話せず、

そのまま口を開くとお説教か息子を責める言葉が出てきそうなので一呼吸おく!

何かしてしまった時に「わかっているけど止められない」という説明をすることがこれまで何度かあったので、

そのことを一緒に考えてみようかなと一瞬思って、止められなかったのか?と聞いてみたけど聞いていてあまりしっくりこなかったので、

もう一度自分のなかで、この出来事をふりかえる。

Fちゃんのお誕生日会。

息子は珍しくお誕生日プレゼントを前日の夕方から用意していて、嬉しくて何度も私に見せにきた。

当日の朝、何も言われなくても、私に持ってきて欲しいと頼むこともなく、(どちらもとっても珍しい!)紙袋を自分で探して用意してプレゼントを入れてしっかり握りしめ、

朝の会でもずっと手に持っていた。

その一連の息子の姿を思い返したら、

あぁ今日、めちゃくちゃおめでとうだったんだな、、、と分かって、

葉っぱを投げてお祝いしたかったね、とただ思ったことを言ったら、悲しそうにそうだと答えた。

いっぱいお祝いしたかったね、という話だけをただしていたら、

息子は自分から「今度は人のいない方にむけてやる」と言った。

びっくりした。

もうやらないと決めるとか、ごめんねするとか、私が想像する解決法と、息子が考える方法が全然違った。

なにがびっくりしたかというと、その方法に、ではなくて、今さらながら、

息子には息子のやりたいことがあって、

それは私が息子にやって欲しいこととは、本当にまったく違うんだと思い知ってびっくりしてしまった。

私のやってほしいことを子どもにそのままやってもらいたいという思いが出てきては、

そうしてくれない子どもにイライラしたり、分からないと悩んだりしてるなぁと思い返しながら

息子には息子の世界が在ることを知り続けていきたいとおもう。

葉っぱを投げて人に当ててしまったことだけではなくて、

息子は悪いことをしたと自分でその瞬間にもうちゃんと分かっていた、という所までを観て、そのままを伝えてくれる保育の場があって、

立ち話の中にもたくさんのヒントがふくまれていて、

その先を家庭でじっくり話をすることができる。

その地道なひとつひとつの積み重ね以上の子育てのたのしさを、今のところ他には知らない。

みんなで子育てをするってこういうことかなぁとじわじわ思うピッコロ3年目。

今日も佳いいちにちでした。

えみ