ギフト

今日のピッコロ帰りのこと。市内のスーパーに立ち寄った。駐車場に年少さんHの家の車が停まっているのを見つけた年中の娘は、「Hいるかな〜」と声を弾ませて、スーパーのドアノブに手をかけた。
するとご年配の女性がふたり、向こう側から出てくるところでほぼ同時にドアを押した。娘は開こうとして手前に引いたドアをこちら側でおさえたまま立ち、さらに女性のすぐ後ろにいた男性が出るのを待って(待っているように見えた)店内に入った。
女性のひとりがすれ違いざま、娘に言った。「あぶないよ。」
あぶないよ、か……。そうじゃないような気がするなぁと、階段を上りながら娘に聞いてみた。
「さっきのドア、あけて待っていたの?」
娘は悲しそうに見えなくもない表情で、「そう」とだけ言って黙った。

ご年配の女性が友人とおしゃべりに夢中になりながらドアを押したら、身長100センチちょっとの幼い子が立っていた。そんなところにいたら見えないよ。女性には危なく感じて、だから娘に声をかけてくれた、ただそれだけのことだろう。
気になったわたしは、帰宅後、もう一度娘に聞いた。「さっきのドア、最後のおじさんが出るまで開いて待っていたの?」
「そうだよ。」はにかみながら娘は答えた。

昨日のこと。長男が習い事のスイミングへ出発する前、長男に届け物があって学校へ寄った。スイミングのバスが学校までお迎えにきてくれる。バスが駐車場に入ってきたその時、駐車場に停まっていた一台の車からクラクションの音が鳴り響き出した。なかなかの音量だ。クラクションは鳴りやまない。止まらないのかな?  おかしいな?  防犯機能か何かかな?と車に近づいてみる。運転席にドライバーさんの姿はもちろんない。すると息子が走ってきた。
「いいからバスに乗りなさい!!」そうわたしは言いかけて、待てよ……と思いとどまった。息子は「大丈夫?」とだけ聞いてきた。友だちはみんなバスに乗り込んでいる。息子に「お母さん、学校のほうで聞いてみるから。誰の車かわからなければ先生にお話するね。だから行ってらっしゃい!」そう伝えると笑顔でバスに乗り込み、バスはすぐに発車した。やっぱりだ。どうしたものかと心配して確認しにきたのだった。

少しくらいなら(バスの発車を)待っていてもらえるだろうし、スイミングバスの運転手さんからも「おい、どうした?」と声をかけてもらえる、そんな関係性を息子は運転手さんと築いているんだろう。彼のタイミングや間を見ていると、そんなふうに感じる出来事だった。

夕飯時、年中の娘が、「さっきの車、びっくりしたね。となりの車のおばあちゃん(小学生の孫を迎えにきていた)もびっくりしていたから(クラクションが止まって)よかったね」と話し出した。彼女のなかに昼間の出来事がまだ続いていた。なかでも、となりに駐車していたおばあちゃんの不安そうな様子が気になっていたことをそこで初めて知った。

一昨日の夜のこと。年少さんの保護者から子どものことで報告がありますと、今年度のメンバー全員にメールが届いた。わたしはうれしくてそのメールを何度も読み返してから眠りについた。翌朝の登園後、そのお母さんを囲んで先生、保育スタッフと立ち話をしているなかに、年少さんHのお母さんもいた。
「今朝、起きてきた息子にメールの話をしたら……」と、涙ぐんでいる。
Hのお母さんの話を聞いて先生が言った。
「子どもって本当にすごいね。でもピッコロの子だけじゃなくて、子どもはみんなそうなんだろうな。」
してあげたいとか、どうしてかな、と、子どもたちは本気で考えている。その、してあげたい気持ちの出し方はそれぞれだから、大人には非常にわかりにくいことも多い。けれど、子ども同士ではわかりあえているのだろうという尊さを度々目の当たりにしてきた。

立ち話をしているうちに陽の光が強くなった。メールをくれたお母さんの1歳になる下の弟が帽子をかぶっていなかったので、頭が暑そうに見えた。先生が「暑いね」とだけ1歳の弟に声をかけた。大人が日陰に移動しようとしたその時、ずっとそばにいた年少さんHがお母さんの手を黙って引っ張った。〝その場〟を大人目線で解読するとすれば、「お母さん話が長いよ」とか、「もうあっちへ行こうよ」とか、そんなところだろうか。でも、どうやらまだたった3歳の彼は、先生の「暑いね」を聞いて、「そうだよ。暑くないところへ移動しようよ」と動いてくれたようだった。
お母さんの手を黙って引っ張った年少さんHの手から、お母さんのそばに佇み、大人の話が終わるまで静かに待っていてくれた、彼のことばにならない想いがあふれているようだった。お母さんのうれし涙を深く感じているようだった。

「あぶないよ」
「いいから早くバスに乗りなさい!!」
「今、話してるんだけど、(手を引っ張って)何?」

どれもこれも違った。

わたしたちが生きる社会は、子どもたちのちいさな贈り物でいっぱいだ。大人が気づけず、ただそれを受け取れていないだけ。3年ぽっちしか生きていないのに。だから子どもにわかるわけがない。それは違う。わたしたちが気づけたら、世界は子どもたちのおおきなギフトであふれている。それが、0、1、2歳であっても。

年中保護者 たきざわ