「キレイ」と言う言葉

先日の事がずっと気になっているのです
川の神様の所へ新年のお供えしたので、お供え物がどうなっているか見に行きました
目的の川に行く途中の小川で(ちょっとややここしいのですが、、)氷が流れに沿って凍っていて
その間を透明の水が流れ、時々光りの反射で「ピカッ」とそれはキレイに光るのです、
その光の色が赤色で、太陽の光と水の流れと何かが合致した時、奇跡みたいに赤色に光るのです
それを見つけた私は『きれ〜〜〜い』と大興奮してしまいました、

今まで見た事のない光で感動だったのです、でも、、、なんか一人盛り上がりと言うか、、イケテナイかな?って気もしたり、でも、その感情を押さえる事ができなくて『きれい!』と盛り上がっていた私に少し違和感も感じつつ、、、
その後、、、
川の神様のお供え物を見に行くと、お餅は、獣が食べたか、神様が本当に食べたか無くなっていました
Kちゃん(3才)が持ってきてお供えしてくれたバナナが黒くなっていました
そのバナナの皮を久美子先生がペロっと剥きました、その中から出てきたのは、黒くなったバナナの実でした、

キレイな光に照らされてバナナの蜜のなのか?繊維なのか?黒くなった実の隙間がキラキラ光るのです、それが又、、、凄くキレイで!
つい又、『キレイ〜』と言いそうになって何故か?その時その言葉を飲み込みました
そしてボソっと『光に照らされると何でもキレイに見えてしまう、、でも、キレイって言えないです』って久美子先生の隣で呟いてしまいました

何故?私はキレイだと言えなかったか?バナナが古くなっていたから、「キレイ」だと言ってる場合でもなかった事も1つ理由です
でも、まだあるような気もしていました、さっきの氷の光の事も気になっていました、、、
久美子先生)『そうですね、キレイと言ってしまうと大人が決めてしまう事になりますからね』と言いました、
久美子先生の言葉をずっと家に帰っても考えていました
まぁいいかぁ〜となかなか流す事は出来なくて、何故か気になり考えていました

子供がどんなふうに感じるかを大切にする事が一番大切な事だったと気が付きました
氷が光って本当にキレイだった時、子供達とその「不思議な光」を共有したい時、『わぁ!光った!』とか『あれ!なに?』とか、そんな言葉で同じ物を見て、
その後、子供達からの思いを待つ事が大事だったかなぁと思いました、「キレイ」と言う言葉が無くても、凄い!あの赤い光を見て、無言だってよかったのだと思いました、

私が「キレイ!」と大興奮しなければ、もっと、子供達からその光を見て感じる言葉も聞く事ができたかもしれません、(無かったかもしれませんが、、)
それぞれ子供達が感じる気持ちを大切にしてあげれなかったかなぁと反省です、
大人が出過ぎた感じでした

久美子先生が言った事『キレイと言ってしまえば大人が決めてしまう事になる』やっと、理解出来た気がしました
目に見える行動を「待って見守る」と言う事は、例えばケンカとか、高い所に登っているとか、子供達がどんなふうに行動するか「待って見守る」それは目に見える事
でも、目に見えない『待って見守る』もある事を深く知りました、感性や、心は見えないでも、そこを言葉で決めつけてしまっては、子供の見えない感性や心の伸びを閉じ込めている事になるんだなぁと思いました。
大切に言葉は使わないといけないなぁと思いました
言葉を使わなくても良い場合もあるんだと、、、色々考えさせられました。
スタッフ/タカダ